2013年10月3日木曜日

東田直樹さん問題④(蛇足)

この話は①~③(主に②と③)で終わるつもりだったのだけど、このブログを読んだ知人に「分かりにくい」と突っ込まれてしまいまして。
私なりに冷静で公平な書き方をしたかったので仕方ないのですが、確かに分かりにくいので、やや私見が入ってしまうが少しだけ追記します。

まず、講演などで手を支えてもらわずに文字盤やパソコンを使っていることについて。
これは特に驚きません。不特定多数の前で、介助者に触られること無く、長文を話す(orパソコンで打つ)だけでいいなら、簡単に出来ます。

事前に文章を覚えさせておく方法もありますし、気づかれないように指示を出せればアドリブをきかせるのもそう難しくありません。私は施設勤めなので、利用者さんを厳選すればもっとうまくやれるかもしれませんね。重度自閉症の方を5人ぐらい集めて「徹底討論。利用者が自らの言葉で施設サービスのあり方を語る」とかやれば、お客さんは喜びそうです(もちろんやりませんよ)。

要は私の懸念どおりなら、東田直樹さんが「誰かのインプットした音声や文章を再生するだけの機械」として扱われてるんじゃないかという事です。私の感覚では本人が嫌がるそぶりを見せれば疑問を感じると思うのですが、多くの人にとっては「機械が不満を訴えることより、自分にとって心地よい話が聞けるかどうか」の方が重要なことのようです。
かなりキツイ例えをあえてしますが、『他人のIpodで音楽を聴いてる』ようなもんでしょうか。

それっぽいことを見せておいて、後は当たり障りが無いことを言ってれば、事実検証などされずとも、まわりがどんどん祭り上げてくれるわけです。殆どの人はメディアが取り上げたり、どこぞで講演してれば盲目的に事実だと思いますからね。

一応断っておきますが、これはあくまで私の仮説でしかないですよ。こう考えるといろいろ辻褄が合うというだけです。事実が検証されない以上、「正しい」という仮説が成り立つのと同様に、「間違っている」という仮説も立つわけです。詳しくは、これまでのエントリーを読んでください。

ただ一言言わせて貰うと、盲目的に信じれおられる専門家の皆さんは、今すぐ専門家の看板をおろして「自閉症好きな気のいいおっちゃん&おばちゃん」ぐらいにされてはどうでしょうか。

2013年10月2日水曜日

東田直樹さん問題③

②東田直樹さんの二面性について。

東田直樹さんには、いわゆるカナータイプの重度自閉症者としての状態像を示す東田さん(以下、自閉症東田さん)と、高い知性を持ち作家として活動する東田さん(以下、作家東田さん)の二面性がある。
その二面性が「実は内面に豊かな知性を持っていた自閉症者」として感動を生んでいるのだろう。そのどちらかが無ければ、よくいる自閉症者、あるいはアスペルガー症候群の作家というという以上の社会的影響力は無かったと思う。

なので、以後は便宜的に「自閉症東田さん」と、「作家東田さん」と呼び分けることにする。
呼び分けることのもう一つの理由は、「自閉症東田さん」は意思を表出するのに特定の条件を必要としないのに対して、「作家東田さん」は何らかの条件がないと表出出来ないということだ(少なくとも、文字盤かパソコンが必要という事は明示されている)。なので、表出内容の違いと、表出方法の違い、この2つが明確なので便宜的に呼び分けさせてもらう。


さて、実は私、ごく最近まで自閉症東田さんは言語表出を持たず、作家東田さんが意思を表出できるのはFCを用いているときだけだと思っていた。だがそうでは無いようだ。

ビックイシューさんのHPに非常に短い動画がアップされていた。→こちら

自閉症の僕、つづる心の内 詩人・作家 東田直樹さん
東田直樹さん著書『風になる―自閉症の僕が生きていく風景』出版記念記者会見
また、上記の記事によると自閉症東田さんにも言語表出があるようだ。
会話するまでは難しいのだろうが、取材に対して「4時になったら終わり」と訴えたり、会見が長引いて「つかれるー」というような文脈に合った言語表出をすることもあるようだ。

ここでいくつか不思議に思うことがある。
【1】作家東田さんの意思を表出するのに必要な条件は何だろうか?文字盤かパソコンさえあればいいのだろうか。母親やその他の援助者は必要なのだろうか、その他の条件は無いのだろうか。

【2】何故、作家東田さんの意思を表出するのに条件(少なくとも文字盤)が必要なのだろうか。文字盤が無くても自閉症東田さんは言語表出出来るのに、何故特定の条件下でのみ自閉症東田さんとかけ離れた言語表現が可能になるのだろうか。

【3】何故、作家東田さんの高い知性が自閉症東田さんの行動に反映されないのか。平たく言うと、何故『重度』自閉症者の状態像のままなのか。高機能自閉症やアスペルガー症候群の方々とも状態像が全く異なる。

【4】何故、自閉症東田さんの普段の生活がクローズアップされないのだろうか?作家として活躍されていることもとても喜ばしい。だけど、私は普段の生活を豊かで実りあるものにすることも支援者の目標の一つだと思っているので、普段の生活の様子も知りたいと思ってしまう。自閉症東田さんは、自らの力で得た金銭を使って、美味しいものを食べ、好きな活動し、欲しいものを手に入れることが出来ているのだろうか。

いくつかは、自閉症の特性として説明されることもあるようだ。ただ、既存の自閉症スペクトラムの概念で説明しようとするのは少々乱暴で、むしろ既存の自閉症スペクトラムに当てはまらない非常に稀有で、それこそ「奇跡的」な事例ということになるのではないだろうか。


ここで、一つだけ懸念がある。
自閉症東田さんに対して、深刻な権利侵害が行われているのではないかというものだ。
上記の朝日新聞の記事では、自閉症東田さんが取材に対して「4時になったら終わり」と言ってパニックを起こすのに対し、作家東田さんは「(記者に)帰ってもらいたいわけではない」と説明している。これに限らず、自閉症東田さんから発せられる意思と、作家東田さんから発せられる意思が、食い違うことが多々あるのではないか。
というより、「重度自閉症者にしか見えないのに、実は~」というのが前提なので、はじめから食い違うことが当然の設定になっているとも言える。

これらのギャップに対する説明は、保護者や作家東田さんから、自閉症の特性を理由に説明されるようだ。ただ、注意が必要なのは自閉症東田さんが意思を表出するのに条件を必要としないのに対し、作家東田さんはあくまでも「何らかの条件」が不可欠ということだ。
言語表出を持っているという点では同じなのに、条件の要らない自閉症東田さんと、条件の必要な作家東田さんとで内容が異なる、時には否定すらされるという事態は慎重に捉えないといけない。

つまり、本当に作家東田さんが自閉症東田さんの代弁者として正しいのか、公正な条件で明らかにされないといけない。そうでない限り、東田直樹さんに対する人権侵害が行われている可能性を否定できない。作家東田さんが自閉症東田さんの「本当の自分の気持ち」とされている以上、自閉症東田さんは常に軽んじられ、作家東田さんが優先されてしまうのではないだろうか。そして、自閉症東田さんと作家東田さんが、真に同一の存在であるという公正(=科学的)な検証はなされてない。
(検証の方法については、一つ前のエントリーを読んでもらいたい)
この問題のもっとも懸念すべきところは、世間の捉え方とは全く間逆の、『東田直樹さん自身のコミュニケーションが阻害され続けている。途方も無い人数の、しかも殆どが善意の大人たちの手によって。』という可能性があるということだ。

母親に手を添えてもらうことなく、文字盤やパソコンを使えるようになるために相当な努力をされたのだと思う。彼を支持する専門家があれだけいるにもかかわらず、そんな努力をしなくても、もっと簡単ですぐに事実証明が出来ることを、何故教えてあげなかったのだろうか。


誤解しないで欲しいのは、私は眉唾だといいたいのではない。じゃあ誰が本を書いたのかとか、講演で援助無しに話しているのはどう説明するんだとか聞かれても、私には分からない。
私の主張はあくまでも検証が必要という、ただその一点だ。


人は自分の信じたいものを信じようとする。
教育の現状に不満がある橋本さんは伝統的子育てで発達障害が治るなんて条例案を出したりするし、ゲームの嫌いの森さんはゲーム脳で発達障害になると言ったりする。わが子の可能性を信じたい親は、障害が治るという言葉に心揺さぶられる。
人は簡単に間違う。時にそれは、人の命まで奪う。ホメオパシーによって乳児の命が奪われたり、キレーションによって自閉症児の命が奪われるということもあった。
信じたから・理解したから、事実かどうか確認しないというのは間違っている。
人間は簡単に間違うので、事実かどうかを公正に検証しなければいけない。
どんな理論であれそれをしている人たちは、皆正しいと信じ・深く理解していたのだ。ただ、事実とは異なっていただけで。


私だって野暮なことは言いたくないし、有害なもので無ければ誰が何を信じようが信じまいが勝手だと思う。
それに、かなりデリケートな問題なので、 正直首を突っ込みたくないと思わなくも無い。
だが、東田直樹さんに関しては冷静な意見があまりにも少なく、最早疑う余地の無い事実として一人歩きしているところに怖ろしさを感じる。
FCにエビデンスがあると確認されたことは無いし、東田さんも公正な検証を受けたことが無い。むしろ、検証を避けていると思われても仕方ない。

どんなに荒唐無稽な話でも、エビデンスさえ示されれば認めざるを得ない。エビデンスがあれば、有効な支援としてより多くの人に用いられる。どんなに非難や排斥を受けていても、エビデンスさえあれば、それらは一転不当な非難とされる。逆に、エビデンスを示さない限りはいつまでも日陰者でしかない。キレーションの根拠の一つとなっていた論文が捏造されていたように、本来エビデンスは喉から手が出るほど欲しいもののはずだ。自閉症支援に誠実な立場であれば、エビデンスを示さずに効果を謳うということが、いかに奇妙なことがわかるはずだ。


多数の善意によって東田直樹さんの権利侵害が助長されている可能性あり、しかも今後は他の自閉症児にもその懸念が広がっていきそうな勢いだ。そのことをどうか頭の片隅にでも入れておいて欲しい。

東田直樹さん問題②

デリケートな問題なので、出来るだけ私見を挟まず、客観的に整理したい。

①まず、東田さんがFC(Facilitated Communication)を使っていること、そしてFCにはエビデンス(科学的な根拠)が無いという点。

現在の東田さんは、介助者が手を添えなくても文字盤やキーボードを使えるようなので、それがFCの範疇に入るのかどうか分からないが、『FCを使うことによって彼が内に秘めた高い知性を表出するにいたった』という主張なのは間違いないようだ。

よく誤解があるが、エビデンス(科学的な根拠)とは、メカニズムが解明されているという意味ではない。
「エビデンスがある=効果が確認された」、「エビデンスが無い=効果が確認されていない」といういことであり、「何故効果があるのか」ということは一切関係が無い。
およそ科学的とは思えない荒唐無稽な理論でも、効果が確認されれば「エビデンスがある」のだ。
平たく言うと「効果があるかどうか」、ただ本当にそれだけの話しなのだ。


例えば、奇跡の詩人のケース(『奇跡の詩人』で検索するとすぐに動画がヒットする)。動画を見ると懐疑的な印象を持つ方は多いと思う。

例えば次のような疑問がある。
母親が激しく動かす文字盤を、肢体に障害のある流奈さんがあんなにすばやく正確に指差せるのか? 流奈さんが文字盤を見ていないとき、ましてや寝ているときでさえ、FCが続くのはおかしいのではないか?

これらは、『奇跡の詩人』を信じない理由として十分に思えるかもしれないが、動画を「見たから信じない」というのは、「見たから信じる」と本質的に何も変わらない。


それならば、【言葉が無く歩くことも出来ない脳障害の子どもが、FCがあれば非常に高い知性を持ち文章を綴ることが出来る】という主張を、【言葉が無く歩くことも出来ない脳障害の子どもが、FCがあれば非常に高い知性と運動機能を持ち、例え寝ている間でも文章を綴ることが出来る】に変えればいいだけの話だ。
こういう辻褄合わせは、「インチキ」にはよくあることだ。
(そんなの誰も信じないと思うかもしれないが、どんなに無茶な主張でも手口が巧妙であれば案外簡単に信じられるものである)

例えどんなに荒唐無稽な主張でも、公正な検証のもとで事実が確認されれば受け入れなければならないのが科学だ。その分野の世界中の研究者がお墨付きを与えることになるので、検証方法は非常に厳密で厳しい。
どんな療育方法であっても、効果があるというのならそれを示す(=エビデンス)責任がある。 
「効果はあるがその証明は出来ない」というのなら、それは詐欺と言われても仕方ない。
しかし、残念なことに一部の療育法は、手ごわい研究者達を相手に効果を証明できないので、親を相手に「効果があると錯覚させる」方法を選んでいる。


FCに関しては奇跡の詩人の動画に関係なく、「効果が無い」という検証結果はあるが、「効果がある」という検証結果はない。
『エビデンスがあるかどうか』に真偽を委ねる人は少ないが、実際に見たことや体験したことで真偽を判断する人は多いだろう。
それは自然なことなのだが、人間は間違う生き物だということを肝に銘じて欲しい。
だから公正に検証する姿勢やプロセス(=科学)が必要なのだ。

だからこそエビデンスは、間違った通説や療法を指摘する武器になるのである。
最近では親学なんてのもあるし、冷蔵庫マザーみたいな昔の悲劇を繰り返しちゃならんのよ。



ちなみに、海外では知的障害を持つ女性がFCによって父親を訴えたケースがあるそうだ。
しかし、1989年12月の「The Carla Case」という裁判を契機に下火になったという。 知的障害を持つ女性(正確にはその援助者)が、FCによって、父から性的虐待を受けたと訴えたのである。裁判所は家族を崩壊させるかどうかの問題だから、当然にFCの実証を求めた。ヘッドフォンを子どもと援助者に装着し、別の質問をしたのである。結果は本人はアルファベットさえ理解しておらず、FCによってコミュニケーションなどとられていないことが明確になったのである。 (滝本太郎・石井謙一郎:「異議あり奇跡の詩人」,同時代社,p111-p112)

余談になるが、FCによって表出される内容が、本人によるものかどうかを確かめるだけなら割と簡単そうだ。上記の方法でなくても、要は本人しか知り得ないことを表出できるか確かめればいいだけだ。
FCをやっていて、文字を書けるようになったり、自発言語を獲得した場合、それがFCの効果かどうか検証するのはもう少し手間がかかる。知的障害の人だって、(当然だけど)発達するのだから 。
その場合、FCをする群と、FCをしない郡を比較して発達の程度に統計的に有意な差を示す必要がある。

もう一つ余談。まだエビデンスという言葉が無かった時代。
アメリカの初代大統領ジョージワシントンは、67歳のある朝風邪をひいた。容態が改善せず、3人の医師が数回に分けて2リットルと3分の1の量の血液を抜いた。当時は、瀉血と呼ばれるこのような医療が当たり前だったが、今の医学に照らし合わせると多量の出血が死因と見られているらしい。

大統領の治療に当たった3人の医師が師事し、当時アメリカでもっとも名を知られ、もっとも瀉血を奨励していたベンジャミン・ラッシュという人の人物像が興味深い。
彼は聡明で、高い教育を受け、思いやりもあった。依存症は治療すべき病気であることを明らかにし、アルコール依存症になれば飲酒をやめられなくなることにも気づいた。また、女性の権利のために声を上げ、奴隷制廃絶のために戦い、死刑反対の運動をした。だが、知性があり、立派な人物というだけでは、何百人という患者を失血死させ、学生達に瀉血を奨励するのをやめることはできなかったのだ。
古代の哲学を重んじる気持ちと、瀉血の使用を正当化するだけのためにひねり出した理屈のせいで、ラッシュは状況を見誤った。たとえば彼が、血液とともに患者の命まで流し去っているとは思わず、瀉血による鎮静作用を、まぎれもない改善のきざしと思い込むのも無理はなかったろう。おそらく彼は記憶を歪め、瀉血を受けたにもかかわらず生き延びた患者だけを記憶に残し、死んだ患者のことは都合よく忘れてしまったのではないだろうか。さらには、成功した例はすべて自分の治療のおかげで、失敗したのは、その患者がどの道死ぬ運命にあったからであって、治療のせいではないと思いたくもあっただろう。 (青木薫訳『代替医療のトリック』,p42)
後半部分は作者の推測であるが、人が陥りやすい思考パターンがかかれている。
信じていても、理解していても、それ自体には何の意味も無い。むしろ時に事実を歪める原因になってしまう。
ただ、「事実かどうか」を確認する姿勢こそが大切なのだと思う。

東田直樹さん問題①

大学生のときにボランティアをしていた。
そこで、自閉症児のお出かけ活動に参加することになり、私は男性で体格も良い方だったので、ややぽっちゃり体型の男の子と1日ペアを組むことになった。
おそらく、「相手するのに力が必要」という判断だったのだろう。

その子は、自分から遊具にのぼったのだが、一番上に着いたところで何故か泣き始めてしまい、下からあがって来る子供達を蹴落しかねない勢いで逆行しようとした。
必死で止めているうちに、しばらくして他の子ども達があがってこなくなり皆別の遊具へ行ったので、無事下におりることが出来た。その後のことは、とにかく必死だった印象しかなくて、よく覚えていない。
泣き叫ぶその子を必死に抑えている間、正直「泣きたいのはこっちだよ!」という思いだった。

これが、自閉症の方と長時間一緒に過ごした始めての経験だった。
決して楽しい体験ではなかったが、何を思ったか当時の私は「このまま引き下がるのは何かくやしい」と考えたので、自閉症について勉強を始めることにした。

その後色々あって、福祉系の大学でもなかったのに、今はこんな仕事をしているで不思議なものだ。

当時の私が求めていたのは、自閉症の特性や、対応の仕方についての知識だった。
時々本を買うときは、出来るだけ大きな書店に行き、中身をじっくり見てから買うことが多かった。
そんなある日、日木流奈さんの『ひとが否定されないルール』という本が目に留まった。
「へー、そんなすごい人もいるんだ」というのが第一印象で、同じコーナーには東田直樹さんの『勇気はおいしいはず』があったが、両方買うほどの予算もないので、最初に目に留まった『ひとが否定されないルール』の方を購入した。

読み始めてみると、なんだか説教くさくてあまり興味を引く内容ではなかったので、半分も読まずに終わってしまった。だが、この時は日木流奈さんが書いたという事については、特に疑っていなかった。

その数年後、『奇跡の詩人』こと日木流奈さんに疑義の声があることを知った。
日木流奈さんのコミュニケーションは、FC(Facilitated Communication)という方法で行われているが、エビデンス(科学的根拠)が無いということも知った。
NHKで放映されたという番組動画をネットで見たときは、「何故NHKはこんなものを流して信じてもらえると思ったのか」という印象を持った。
私がこのことを知ったのが数年遅れだったのもあり、ネットには判断材料となる情報が十分にあって、世間の論調としても黒か白かすでに評価が決まっている様な状態にあった。


更に数年後、もう学生じゃなく働き始めた後のこと。
近くの施設で東田直樹さんの講演があったことを、保護者の人から聞いた。
世間話で出た話だったのと、その保護者も講演に行ったわけではなかったので、その時はすぐ別の話題に流れていった。


県の知的障害者施設協会の研修で、講師が「波動」やら、「気」やら、「仙人」の話を得意げにするしていたりするのが知的障害者福祉の実情なので、正直「あ~あ、またか」という印象しかなかった。

しかし、最近になって彼の動画(1分にも満たない短いものだが)を見て少し考えが変わった。
凄く異常な事態になっているのではないかという懸念と、冷静な意見があまりに少ないということに違和感を感じる。